読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第3編第14章

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今回取り上げるのは中村雄二郎『現代情念論』の第3編第14章「小林秀雄における美意識と政治」である。この文章は中村が小林秀雄を論じた文章の中で、最もわかりやすいものだと思う。
今回も、1994年に出た講談社学術文庫版を参照している。

第14章:小林秀雄における美意識と政治(264-)

小林秀雄ベルクソン論は単なるベルクソン哲学の解説にとどまっており、もしそこにオリジナリティがあるとすれば、冒頭にある亡き母と蛍の話とベルクソンに対する執拗な情熱だけであろう。
小林の歴史観はいかにもベルクソン的であり、もうすでにベルクソン哲学から得られるものは十分自分のものにしているように思える。それにも拘らず、敢えてベルクソン論を書いているのは何故なのか。

小林は対話的な人ではなく、他人を理解する姿勢にも他人から理解される姿勢にも欠ける。

ベルクソンユダヤ教を棄ててカトリックに改宗したことは、単に「信仰を得た」で片づけられる話ではないはずだが、小林はそこに「信仰を得た後に何を語ることがあろうか」という神秘的沈黙しか見なかった。

ジャンヌ・マリタンはベルクソンの哲学の意義を認めつつも、「ベルクソニズムの思想と表現はきわめて個人的であり、人と人との間を結びつけるというよりは、人と人との連繋を断ちきって、一人一人を個我のなかに閉じこめる。そこでとらえられた真理は微妙ではあるが、不安定であり、堅固さを欠いている」と批判した(268)。
マリタンのベルクソン批判は小林にも当てはまるのではないか。

小林秀雄の作家論に共通して言えることは、「その文章が個々の作家の人生や芸術を簡単に解いてくれるというよりは、いかにかれらの孤独が奥深く、測り知れざるものがあり、「独創的」であって、「心虚しからざる」人々の理解を拒絶するか、そして、単なる実証的な研究や学問上の定説が、いかに真相をおおっているか」と独特な文体で論じているということである(269)。
読者は小林の独特な文章を読み解いた末に「真相」を垣間見ることができるが、真相は一層謎めいたものとして映るばかりである。

小林は源実朝にすらも近代的な「独創的な孤独」を見出している。
「ギラギラした、そして切迫した近代性と、永遠の相への超越―ヨーロッパの通念では、ほとんど回心によってでもなければ結びつきえない二つのものが、小林秀雄のなかでは微妙に融け合っている」(270-271)。
小林において、熾烈な自意識とそこからの解放は無媒介に結びつき、相互に浸透していると言える。
小林の思想を貫き支えているのは厳しさの美、美の厳しさ、美的ストイシズムとも言うべきものであり、そこに論理の一貫性や論理的徹底を見出そうとするのは無駄である。

小林にとって自意識からの解放とは、「解釈を拒絶するもの」への途である。それは美的超越とも言うべき途である。
美的超越は美意識化でもあるため、切迫した近代性と永遠の相への超越を融合・共存させることができた。
両者の融合は昭和初期の日本の知識人たちに共通する願望であり、小林はそれを成し遂げたように見えたからこそ、あれほどの名声を博したのだろう。
美的超越の途を行く以上、小林の思想は神秘主義と結びつくことはあっても、超越的な宗教と結びつくことはできないのではないか。美はそれ自身が救いなのだから。
一方、形而上学ベルクソン神秘主義は宗教に結び付きうる。形而上学それ自体は救いではないのだから。

小林が物質的なものを頑なに拒絶するのは、自意識からの解放の途として美的超越を選んだことと結びつく。
物質は解釈を拒絶するものではあるが、人生や芸術とは正反対の方向にあるもので、厳しい美の世界にとって異物でしかない。それ故、小林は物質を自己の思想から排除しようとする。
cf.小林のピカソ論とプラトン