読書メモ:リオタール『ポスト・モダンの条件』(1979年)序

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ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム』(1979年)の邦訳を読んでみようと思う。というのも、ポスト・トゥルースなる語が流行するに至り、ポストモダン思想に対する注目が高まっているからである(例えば、『現代思想』の2021年6月号はポストモダン特集だった)。また、「ポストモダンは価値相対主義である」という通俗的な理解、特にTwitter上でよく見かける見解の当否について考える上でも、リオタールを読むことは避けては通れまいと判断した。
※同書はカナダのケベック州大学協議会に提出された報告書を基にしているようで、そのせいかフランス現代思想特有の難解さが薄れていて比較的読みやすいように思う。他の著作もこうであったら良かったのに。

序(7-12頁)

ポストモダンとは「高度に発展した先進社会における知の現在の状況」である(7)。
科学と物語は常に緊張関係にあり、科学の判断基準に照らし合わせれば、物語の多くは単なる寓話となる。
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科学が単に有用な規則性を言表するだけに留まらず、真なるものを探究する営みであるならば、科学は自らのゲームの規則を正当化しなければならない。それを正当化する言説は哲学と呼ばれてきた。
自らを正当化する大きな物語に依拠する科学をモダンと呼ぶことにする。真理が大きな物語に依拠するとき、諸制度や正義も大きな物語に依拠することになる。

ポストモダンとはメタ物語に対する不信感である
メタ物語に対する不信感は科学の進歩の結果であるが、科学の進歩はそうした不信感を前提にしている。
メタ物語の衰退は形而上学としての哲学の危機、メタ物語に依存していた大学制度の危機に対応するものである。
「われわれは必ずしも安定した言語の組み合わせを形成してはいないし、われわれが形成する言語の組み合わせの特性は必ずしも疎通可能なものであるわけではない」(9)。

「到来しつつある社会は、(構造主義ありはシステム理論が示すような)ニュートン的人類学に属するよりは、むしろ一層、分子論的な言語行為論に属しているのだ。多くの異なった言語ゲームがあり、すなわち言語要素の異質性がある」。

ポストモダン状況では「言語要素の共約可能性とその全体に対する決定可能性とを暗黙のうちに前提とするような論理に従って」、「多様な社会性の雲を統制しようとする」(9-10)。
このとき、人間の生は力の果てしない増大のために捧げられるようになる。また、社会的正義や科学的真理の正当化はシステムの効率化に寄与するか否かという基準に則って行われることになる。
この基準がすべてのゲームに適用されるとき、操作的・共約的ではないものは排除されることになる。

システムの最大効率を求める論理は破綻をきたしているが、論理の破綻に対する救いを将来に期待することは最早できない状態にある。
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「ポスト・モダン状況はただ幻滅に結び付いているわけではなく、また正当化を失った盲目的な実証主義に結びついているわけでもない。メタ物語が崩れた後で、正当性はいったいどこに存するのか」(10)
操作性という基準はテクノロジーの物であって、真理か否かを判定するものではない。また、ハーバーマスは議論を通して得られるコンセンサスに正当性のよりどころを求めようとしているが、それは言語ゲームの異質性を排除する点で問題である。と言うのも、新しいものを生み出すには意見の相違が必要不可欠だからである。
「ポスト・モダンの知はけっしてただ単に諸権力の装置であるのではない。それは、差異に対するわれわれの感受性をより細やかに、より鋭く、また共約不可能なものに耐えるわれわれの能力をより強くする
ポスト・モダンの知はその根拠を専門家のホモロジーにではなく、発明家たちのパラロジーに見出す。
問い:「社会関係の正当化、公正な社会―これらは、科学の活動におけるパラドックスと同様なパラドックスに従って実践可能だろうか。その場合のパラドックスとはどのようなものだろうか」(11)

リオタールは自らを専門家ではなく、哲学者と位置付ける。「専門家は自分が何を知り、何を知らないでいるかを知っているが、哲学者はそうではない。専門家は結論し、哲学者は問いかける。それは二つの異なる言語ゲームである。」(12)
本書においては、専門家の言語ゲームと哲学者のそれが混交状態にある。
「哲学的あるいは倫理・政治的な幾つかの正当化の言説について、その形式ならびに言語行為の分析」の出版は後日に譲るほかないが*1、本書はその分析を先取りして要約したものである。

田辺元ポストモダン思想家と解釈する向き(中沢新一氏など)もあるわけだが、リオタールに即するなら田辺はモダン思想家である。田辺に「メタ物語に対する不信感」はないどころか、むしろ信頼し続けていたと言えるはず。

*1:それこそがリオタールの主著『文の抗争』(1984年)なのだろうか?