読書メモ:リオタール『ポスト・モダンの条件』(1979年)第1章・第2章

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前回に引き続いて、ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』の邦訳を読み進めていきたい。

第1章:領野/情報化社会における知(13-19頁)

仮説:「社会がいわゆるポスト・インダストリー時代に入り、文化がポスト・モダン時代に入ると同時に、知のステータスにも変化が生じる」(13)
知のステータスの変化はヨーロッパの再建が終わった1950年代末頃より始まっていたが、その進むスピードは一様ではなかった。

「科学的知識は言説の一種である」(14)
情報機械の多様化は知識の流通を大幅に変化させ、それに伴って知の性質も変化していくだろう。
知が新しい流通回路にとって操作的であり得るためには、知識は多量の情報へと翻訳され得るのでなければならない」「既存の知のなかでそのような翻訳可能性を持たないものは結局は見捨てられてしまうだろう」(15)
知の習得が人格の陶冶に繋がるという考えは衰退していく。
知識の供給者と使用者の関係は商品の生産者と消費者の関係、つまり、価値形態の様相を呈することになるだろう。
知はそれ自体を目的とするものではなくなり、交換されるためのものとなる。このとき知は<使用価値>を失うことになる。
cf.マルクス『経済学批判要綱』
「知は、国家=国民の生産能力を支えるものとしての重要性を確保し続け、さらに一層それを強化する」(16)。これによって、先進国と途上国の格差は拡大し続けるであろう。
情報の支配という問題は商工業に留まらず、軍事や政治の戦略においても一大問題となっていく。

知識は多量の情報へと翻訳可能であるべきという「コミュニケーションの<透明さ>のイデオロギー」にとって、国家は不透明さや騒音となる。
知の性質の変化は「公権力に対して、公権力と大企業との、そして更に一般的には市民社会との、権利上また事実上の諸関係を見直すように求めている」(18)。
ex.多国籍企業が情報網を整備した場合、国家はそれとどのように関わるべきなのか。

第2章:問題/正当化(21-26頁)

科学技術の知が蓄積されるという事態は自明のものとして扱われることが多いが、実は自明ではない。
そもそも、科学的知は知の唯一の在り方ではない。科学的知は物語的知と常に緊張関係にあった。
ポスト・モダンにおける科学的知は今まで以上に「<知る者>の外在化」「知の使用者に対する疎外」を伴うものである。1960年代の大学紛争はこれを一因としたものであり、教育者や研究者の士気低下を招いてもいる。
ポスト・インダストリー社会に向かおうとする流れはそう簡単に止められるものではないにせよ、科学的知の現在や未来におけるステータスについて考察するとき、「学者たちの懐疑」は考慮に入れられるべきである。

科学における正当化
「科学の言説を扱う<為政者>が、ある言表がその言説に属し、科学の共同体によって考慮されるための定められた条件(一般的には、内的な一貫性と実験による検証性という条件)を規制する権限を持つプロセス」(24-25)
為政者による正当化
為政者が法律を規範として公布する権限を持つようになるプロセス

この2つの正当化はプラトン以来不即不離の関係にある。「何が真であるかを決定する権利は、何が正しいかを決定する権利からけっして独立してはいない」
「倫理ないしは政治と呼ばれるもうひとつの言語のジャンルのあいだには関連があって、どちらも同じ展望、あるいは同じ<選択>から生じたものなのである。そして、この選択こそが<西欧>と呼ばれるものなのである」(25)

「知が何であるかを決定するのは誰なのか。そして、どう決定するのがよいかを知っているのは誰なのか。情報化時代における知の問題は、いままで以上に政府の問題なのである」(25-26)。
科学における正当化と為政者における正当化という「二重の正当化」の問題はかつてないほど切実なものとなっている。