読書メモ:辻村公一「有の問と絶対無」(1966年)序言

辻村公一の博士論文『ハイデッガー論攷』(1970年)は4つの本論と3つの付論によって構成されているが、7つの論稿の内的連関を明示するための論文がついに書かれなかったこともあり、それぞれがどう繋がっているのかを推測するのは容易ではない。そこで、今回は7つの論稿をそれぞれ独立したものとして自分なりのペースで読み進めていくことにした。

第1論文「有の問と絶対無」は京都学派の哲学者によるハイデガー論の到達点とされる論考である*1。「絶対無は何故有よりも根源的・究極的なのか」という問題を考える上で有力な手掛かりとなりうる論文だと思われるが、今日ではほとんど言及されることがない。絶対無というテーマ自体に関心が集まらなくなったことがその一因として考えられるわけだが*2、それにしても勿体ないことのように思われる。

序言(3-10頁)

この論文の意図するところは、ハイデガーにとっての「根本の問」である「有の問」を禅の立場と照らし合わせることである。
その目標は「有の問の根本の立場を示す「有と時」という標題の中核をなす「と」が、それ自身にもなお十分に明らかにされていないその真実性もしくは「真性」に於ては、禅に於て自覚される自己本来の面目としての絶対無に帰着せざるを得ない」ことを示すことにある(3)。
※性起を絶対無の方向に解釈することの可能性について、ハイデガーは辻村宛の書簡で「それは正真正銘の日本的解釈であろう」と述べたらしい(注1)

「有の意味への問」とは「有るとは何の謂いか」という問いであり、後期ハイデガーに即せば「有の真性への問」である。この問いは「形而上学とは何で有るか」という問いから出発し、「形而上学の<それ自身は最早形而上学の内に属せざる>根底の内」へと帰っていく。
形而上学の根底」とは「別の元初」とも言い換えられる。それは「プラトンアリストテレスの思惟に於て形而上学が始まった時、まさにそのことによってそのことの根底に覆蔵され忘却され、従って以来形而上学の内では絶えて問われることのなかった元初」である(4)。
※「別の元初」という言葉は公刊著作の中で特に目立たない形でしか使われていない。しかし、『哲学への寄与』においては形而上学的思惟と元初が「第一元初」と呼ばれているのに対して*3、その「第一の元初の一層根源的なる反復」、つまり「性起としての有それ自身」「有の真性」が「別の元初」と呼ばれている(注5)。

ハイデガーの思惟において始められた「有の問」は、形而上学から出て「別の元初」の内へ帰り行くことである。その帰り行きは「思惟の本質の変わり行き」に於て遂行される。それは思惟が「表象的思惟」という「形而上学的<に規定せられたる>思惟」から「別の元初」への「回想」へと変転しつつ変わり行くことである。
思惟は人間の本質である以上、思惟の本質の変わり行きは人間の本質の変わり行きでもある。

形而上学において「有る」は「有るもの」の方から「有るものの有」として見られており、「有るものの有」は「最高の有るもの」としての「神」に根拠づけされている。つまり、形而上学においては、有は「有るもの」の方から「有るものの有」として露現することに於て「有それ自身」としては覆蔵されているのである。

このような意味で形而上学が理解されるとき、形而上学は第一哲学としての哲学の根本的部門を意味するだけではなく、「有るものの有」としての開けを意味するようになる。
形而上学は「西洋的世界の根本構造」であり、従ってその世界の歴史とその世界に住む人間の本質すなわち思惟とを根本から担い且つ統べているところの支配力である」(5)
すべての「有るものの有」をエネルギー源とみることがテクノロジーの本質であるならば、テクノロジーは現代における形而上学である。
形而上学とは何で有るか」という問いは世界歴史の現在の最も深い問いである。

禅の本質は「自己本来の面目」のことであり、絶対無ともいわれる。それは一切の言語的思惟を絶した境地にあるもので、「直下に自覚する或る一つの本源であり元初」であり、真性でもある(6)。
禅の本質としての元初は形而上学の元初=第一の元初とは別のものである。
ここに至り、以下のような問いが出てくる。
・禅の真性としての絶対無がそれであるところの別の元初は「有の真性への問」に於てそれの内への帰行の道が開かれ始めたところの「別の元初」であり得るか
・両方の元初が別のものであるならば、そこにはどのような相違点・共通点があるのか。

ハイデガーの思惟は無心や無我に最接近しているように思われるが、そこには微細な相違がなおも残されている。

*1:『続・ハイデガー読本』の辻村に関する記述を参照のこと

*2:最近の京都学派研究の動向を見るに、京都学派の哲学を東洋的思惟とみなす理解は忌避される傾向にあるようだ。

*3:『哲学への寄与』が公刊されたのは1989年のことである。1966年の辻村は何故その内容を把握できていたのだろうか。