下村寅太郎と海外留学(メモ)

 通勤中に突然思いついたことをメモしておく。なお、現在、私は赴任先にいるため、『下村寅太郎著作集』が手元になく、出典を明記することができない。

 下村寅太郎は戦争のために念願だった海外留学をついに果たすことができなかった(下村の友人、西谷啓治はギリギリのタイミングでドイツ留学を果たした)。ヨーロッパの地を実際に訪れたのは50歳を過ぎてから、しかも旅行という形であった。それ以降、下村は1か月ほどのヨーロッパ滞在を4回経験し、晩年には「旅行といえども極めて濃密な時間であった」と述懐している。
 しかし、中年期以降の海外旅行を以て、青年期の留学経験が無いことを埋め合わせることはどこまで可能なのだろうか。普通に考えれば、20代までの蓄積で眺める海外と、50代までの蓄積で眺める海外には「深み」の差がありそうではある(鍵括弧をつけたことに注意)。ましてや、下村のように学問に打ち込み続けた人ならなおのことそうであろう。しかし、青年期の留学経験は中年期以降では得られない何かがありそうなのも大勢の一致するところだと思う。では、「中年期以降の海外経験では得られず、青年期のそれでないと得られないないもの」とは何か。これを言語化する必要がある。

 コロナ禍以前、私は下村が直面したこの問題を日本人が経験することはもうないだろうと楽観視していたが、コロナ禍以降は海外渡航もままならなくなってきた。下村同様、研究者として一番伸びしろがある時期に海外留学にいけず、中年期以降にその欠落に苦悩する人がこれから出てくる可能性がある(学者だけではないかもしれないが)。ロシアのウクライナ侵攻の行く末如何によっては、その人数はさらに増えると予想される。
 下村の経験を分析することはそうした人たちの「役に立つ」と確信しているが、困ったことに、「役に立つ」のは中年期以降である。今まさに留学経験を必要としている人の役には立たないであろうことは承知している。